未刊詩篇

中原中也

〔一九三〇年-一九三二年〕

脱毛の秋 Etudes

1

それは冷たい。石のやうだ / 過去を抱いてゐる。 / 力も入れないで / むつちり緊つてゐる。

捨てたんだ、多分は意志を。 / 享受してるんだ、よるの空氣を。 / 流れ流れてゐてそれでも / ただ崩れないといふだけなんだ。

脆いんだ、密度は大であるのに。 / やがて黎明あけぼのが來る時、 / それらはもはやないだらう……

それよ、人の命の聽く歌だ。 / ――意志とはもはや私には、 / あまりに通俗な聲と聞こえる。

2

それから、私には疑問が遺つた。 / それは、蒼白いものだつた。 / 風も吹いてゐたかも知れない。 / 老女の髮毛が顫へてゐたかも知れない。

コークスをだつて、強ち莫迦には出來ないと思つた。

3

所詮、イデエとは未決定的存在であるのか。 / 而して未決定的存在とは、多分は / 甞て暖かだつた自明事自體ではないのか。

僕はもう冷たいので、それを運用することを知らない。 / 僕は一つの藍玉を、時には速く時には遲くと / 溶かしてゐるばかりである。

4

僕は僕の無色の時間の中に投入される諸現象を、 / まづまあ面白がる。

無色の時間を彩るためには、 / すべての事物が一樣の値ひを持つてゐた。

まづ、褐色の老書記の元氣のほか、 / 僕を嫌がらすものとてはなかつた。

5

瀝靑チヤン色の空があつた。 / 一と手切ちぎりの煙があつた。 / 電車の音はドレスデン製の磁器を想はせた。 / 私は歩いてゐた、私の膝は櫟材だつた。

風はショウインドーにさざなみをたてた。 / 私は常習の眩暈をした。 / それは枇杷の葉の毒に似てゐた。 / 私は手を展げて、二三滴雨滴を受けた。

6

風は遠くの街上にあつた。 / 女等はみな、白馬になるとみえた。 / ポストは夕陽に惡寒をかんしてゐた。 / 僕は褐色の鹿皮の、蝦蟇口を一つ欲した。

直線と曲線の兩觀念は、はじめまざり合はさりさうであつたが、 / まもなく兩方消えていつた。

僕は一切の觀念を嫌憎する。 / 凡ゆる文獻は、僕にまで關係がなかつた。

7

それにしてもと、また惟ひもする / こんなことでいいのだらうか、こんなことでいいのだらうか?……

然し僕には、思考のすべはなかつた

風と波とに送られて / ペンキの剥げたこのボート / 愉快に愉快に漕げや舟

僕は僕自身の表現をだつて信じはしない。

8

とある六月のゆふべ / 石橋の上で岩に漂ふ夕陽を眺め、 / 橋の袂の藥屋の壁に、 / 松井須磨子のビラが翻るのをみた。

――思へば、彼女はよく肥つてゐた / 綿のやうだつた / 多分今頃冥土では、 / 石版刷屋の女房になつてゐる。――さよなら。

9

私は親も兄弟もしらないといつた / ナポレオンの氣持がよく分る

ナポレオンは泣いたのだ / 泣いても泣いても泣ききれなかつたから / なんでもいい泣かないことにしたんだらう

人の世の喜びを離れ、 / 縁臺の上に莚を敷いて、 / 夕顏の花に目をくれないことと、 / 反射運動の斷續のほか、 / 私に自由は見出だされなかつた。

目次

未刊詩篇

  1. 〔一九二〇年-一九二三年〕
  2. 〔一九二三年-一九二八年〕
  3. 〔一九二八年-一九二九年〕
  4. 〔一九三〇年-一九三二年〕
  5. 〔一九三三年-一九三四年〕
  6. 〔一九三五年-一九三七年〕

〔一九三〇年-一九三二年〕

  1. 夏と私
  2. 郵便局
  3. 幻 想
  4. かなしみ
  5. 北澤風景
  6. 三毛猫の主の歌へる
  7. 干 物
  8. いちじくの葉(いちじくの、葉が夕空にくろぐろと)
  9. カフヱーにて
  10. (休みなされ)
  11. 砂漠の渇き
  12. (そのうすいくちびると)
  13. (孤兒の肌に唾吐きかけて)
  14. (風のたよりに、沖のこと 聞けば)
  15. Qu'est-ce que c'est que moi?
  16. さまざまな人
  17. 夜空と酒場
  18. 手 紙
  19. 夜 店
  20. Tableau Triste
  21. 風 雨
  22. (吹く風を心の友と)
  23. (秋の夜に)
  24. (支那といふのは、吊鐘の中に這入つてゐる蛇のやうなもの)
  25. (われ等のヂェネレーションには仕事がない)
  26. (月はおぼろにかすむ夜に)
  27. (ポロリ、ポロリと死んでゆく)
  28. 疲れやつれた美しい顏
  29. 死別の翌日
  30. コキューの憶ひ出
  31. 細 心
  32. マルレネ・ディートリッヒ
  33. 秋の日曜
  34. (ナイヤガラの上には、月が出て)
  35. (汽笛が鳴つたので)
  36. (七錢でバットを買つて)
  37. (それは一時の氣の迷ひ)
  38. (僕達の記憶力は鈍いから)
  39. (南無 ダダ)
  40. (頭を、ボーズにしてやらう)
  41. (自然といふものは、つまらなくはない)
  42. (月の光は音もなし)
  43. (他愛もない僕の歌が)
  44. 嬰 兒
  45. (宵に寢て、秋の夜中に目が覺めて)
  46. (秋の日の吊瓶落しや悲しさや)
  47. お會式の夜
  48. 蒼ざめし我の心に
  49. (辛いこつた辛いこつた!)
  50. 脱毛の秋
  51. 幻 想
  52. 修羅街輓歌 其の二

このファイルについて

底本
中原中也「中原中也全集 第 1 巻」角川書店
1967 年 10 月 20 日 初版發行
1967 年 11 月 30 日 三版發行
中原中也「中原中也全集 第 2 巻」角川書店
1967 年 11 月 20 日 印刷發行
入力
イソムラ
2004-03-31T16:50:45+09:00 公開
2010-02-19T12:05:00+09:00 追加・修正
概要
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