未刊詩篇

中原中也

〔一九三〇年-一九三二年〕

幻 想

草には風が吹いてゐた。 / 出來たてのその郊外の驛の前には、地均機械ローラー・エンジンが放り出されてあつた。そのそばにはアブラハム・リンカン氏が一人立つてゐて、手帳を出して何か書き付けてゐる。 / (夕陽に背を向けて野の道を散歩することは淋しいことだ。) / 「リンカンさん」、私は彼に話しかけに近づいた。 / 「リンカンさん」 / 「なんですか」 / 私は彼のチョッキやチョッキの釦や胸のあたりを見た。 / 「リンカンさん」 / 「なんですか」 / やがてリンカン氏は、私がひとなつつこさのほか、何にも持合はぬのであることをみてとつた。 / リンカン氏は驛から一寸行つた處の、畑の中の一瓢亭に私を伴つた。 / 我々はそこでビールを飮んだ。 / 夜が來ると窓から一つの星がみえた。 / 女給が去り、コックが寢、さて此の家には私達二人だけが殘されたやうであつた。 / すつかり夜が更けると、大地は、此の瓢亭が載つかつてゐる地所だけを殘して、すつかり陷沒してしまつてゐた。 / 歸るすべもないので私達二人は、今夜一夜を此處に過さうといふことになつた。 / 私は心配であつた。 / しかしリンカン氏は、私の顏を見て微笑むでゐた、「大丈夫ダイジョブですよ」 / 毛布も何もないので、私は先刻から消えてゐたストーヴを焚付けておいてから寢ようと思つたのだが、十能も火箸もあるのに焚付たきつけがない。萬事諦めて私とリンカン氏とは、卓子を中に向き合つて、頰肘をついたまゝで眠らうとしてゐた。電燈は全く明るく、殘されたビール瓶の上に光つてゐた。

目が覺めたのは八時であつた、空は晴れ、大地はすつかり舊に復し、野はレモンの色にあかつてゐた。 / コックは、バケツを提げたまま裏口に立つて誰かと何か話してゐた。女給は我々から三米ばかりの所に、片足浮かして我々を見守つてゐた。 / 「リンカンさん」 / 「なんですか」 / 「エヤアメールが揚つてゐます」 / 「ほんとに」

目次

未刊詩篇

  1. 〔一九二〇年-一九二三年〕
  2. 〔一九二三年-一九二八年〕
  3. 〔一九二八年-一九二九年〕
  4. 〔一九三〇年-一九三二年〕
  5. 〔一九三三年-一九三四年〕
  6. 〔一九三五年-一九三七年〕

〔一九三〇年-一九三二年〕

  1. 夏と私
  2. 郵便局
  3. 幻 想
  4. かなしみ
  5. 北澤風景
  6. 三毛猫の主の歌へる
  7. 干 物
  8. いちじくの葉(いちじくの、葉が夕空にくろぐろと)
  9. カフヱーにて
  10. (休みなされ)
  11. 砂漠の渇き
  12. (そのうすいくちびると)
  13. (孤兒の肌に唾吐きかけて)
  14. (風のたよりに、沖のこと 聞けば)
  15. Qu'est-ce que c'est que moi?
  16. さまざまな人
  17. 夜空と酒場
  18. 手 紙
  19. 夜 店
  20. Tableau Triste
  21. 風 雨
  22. (吹く風を心の友と)
  23. (秋の夜に)
  24. (支那といふのは、吊鐘の中に這入つてゐる蛇のやうなもの)
  25. (われ等のヂェネレーションには仕事がない)
  26. (月はおぼろにかすむ夜に)
  27. (ポロリ、ポロリと死んでゆく)
  28. 疲れやつれた美しい顏
  29. 死別の翌日
  30. コキューの憶ひ出
  31. 細 心
  32. マルレネ・ディートリッヒ
  33. 秋の日曜
  34. (ナイヤガラの上には、月が出て)
  35. (汽笛が鳴つたので)
  36. (七錢でバットを買つて)
  37. (それは一時の氣の迷ひ)
  38. (僕達の記憶力は鈍いから)
  39. (南無 ダダ)
  40. (頭を、ボーズにしてやらう)
  41. (自然といふものは、つまらなくはない)
  42. (月の光は音もなし)
  43. (他愛もない僕の歌が)
  44. 嬰 兒
  45. (宵に寢て、秋の夜中に目が覺めて)
  46. (秋の日の吊瓶落しや悲しさや)
  47. お會式の夜
  48. 蒼ざめし我の心に
  49. (辛いこつた辛いこつた!)
  50. 脱毛の秋
  51. 幻 想
  52. 修羅街輓歌 其の二

このファイルについて

底本
中原中也「中原中也全集 第 1 巻」角川書店
1967 年 10 月 20 日 初版發行
1967 年 11 月 30 日 三版發行
中原中也「中原中也全集 第 2 巻」角川書店
1967 年 11 月 20 日 印刷發行
入力
イソムラ
2004-03-31T16:50:45+09:00 公開
2010-02-19T12:05:00+09:00 追加・修正
概要
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