中原中也
僕達の記憶力は鈍いから、 / 僕達は、その人の鬚くらゐしか覺えてをらぬ
嘗てその人がシガレットケースをパンと開いて、 / エヂプト煙草を取り出したことももう忘れてゐる。
明治天皇御大葬、あゝあの頃はほんによかつた、 / 僕は生き神樣が亡くなられたといふことはどんなことだか分らなかつた。
號外は盛んに出、僕はそれを受取ると急いで家の中に驅込んだ。 / あの頃は蚊が、今より多かつたやうな氣がする。
その人は、父の親友で、毎日々々遊びに來てゐた。 / 僕をみると何にも言はないで、ニコニコ笑つてゐた。
後、僕達が其の土地を去つてから、 / その人の奧さんが學生と驅落したことが新聞に出た。
母は涙ぐんでゐた、父は眼鏡を拭いてゐた。 / 僕はそんなことがどうして大したことなのか分らなかつた。
今僕はそれが大したことだと分るやうになつた。 / そして六十の老人のやうな心で、生きてゐる。
http://www.junkwork.net/txt