在りし日の歌

亡き兒文也の靈に捧ぐ

中原中也

永訣の秋

ゆきてかへらぬ

――京 都――

僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒ぎ、風は花々搖つてゐた。

木橋の、埃りは終日、沈默し、ポストは終日赫々と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停まつてゐた。

棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者みよりなく、風信機かざみの上の空の色、時々見るのが仕事であつた。

さりとて退屈してもゐず、空氣の中には蜜があり、物體ではないその蜜は、常住食すに適してゐた。

煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。

さてわが親しき所有品もちものは、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、布團ときたらば影だになく、齒刷子はぶらしくらゐは持つてもゐたが、たつた一冊ある本は、中に何にも書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。

女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、會ひに行かうとは思はなかつた。夢みるだけで澤山だつた。

名状しがたい何者かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。

* *  *

林の中には、世にも不思議な公園があつて、無氣味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。 / さてその空には銀色に、蜘蛛の巣が光り輝いてゐた。

目次

在りし日の歌

  1. 在りし日の歌
  2. 永訣の秋

永訣の秋

  1. ゆきてかへらぬ
  2. 一つのメルヘン
  3. 幻 影
  4. あばずれ女の亭主が歌つた
  5. 言葉なき歌
  6. 月夜の濱邊
  7. また來ん春……
  8. 月の光 その一
  9. 月の光 その二
  10. 村の時計
  11. 或る男の肖像
  12. 冬の長門峽
  13. 米 子
  14. 正 午
  15. 春日狂想
  16. 蛙 聲
  17. 後 記

このファイルについて

底本
中原中也「中原中也全集 第 1 巻」角川書店
1967 年 10 月 20 日 初版發行
1967 年 11 月 30 日 三版發行
中原中也「中原中也全集 第 2 巻」角川書店
1967 年 11 月 20 日 印刷發行
入力
イソムラ
2004-03-31T16:50:45+09:00 公開
2010-02-19T12:05:00+09:00 追加・修正
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