monologue : Other Stories.

Other Stories

喫茶店

「いらっしゃいませ」

見てくれよりもだいぶ軽い木造の扉を押し開けると、それの頭の部分へ取り付けられたブリキ製のベルが、カラカラと乾いた音を立てる。奥から反射的に店員の声が届いて、少し遅れて扉がきしむ。

「お客様、お一人ですか?」

扉の前へ一人立つ僕に、店員が指を立てながら確認する。その目には単純な応対マニュアル以外のものは読み取れなくて、僕は抱いてもいなかったはずの期待が音を立てて崩れるのが聞こえた気がした。我ながら馬鹿馬鹿しいと思いながらも、心の中で耳をふさぐことはしなかったけれど。

「ご注文がお決まりになりましたら伺いますので」

おしぼりと水の入ったコップを置いて、店員はキッチンの奥へ姿を消した。午後三時をまわった喫茶店は空いていて、僕以外には作業服を着た中年男性と、買い物帰りの主婦らしき女性しかいなかった。五十程度の空いた席へ順番に視線を投げかける。

「お決まりですか?」

ゆっくり視線を巡らせていると、キッチンからひょいと顔を出した店員と目が合った。眺める気もなしに手にしたメニューへ、確認のため視線を落とす。

「ホットコーヒーひとつ」
「こちらクリーム入ってますけどよろしかったですか?」

はい、と抑揚のない声で応えると、店員は軽く微笑んでまたキッチンへ向かった。ふう、と息をつきながら、おしぼりの袋を開けて中身を広げる。別に汗をかいていたわけではなかったけれど、それを顔へ当てて、両手で目頭をおさえながら肘を机につく。少しずつ、いろんなことが思い返される。

『別に、特に何もないよ』

楽しいのかつまらないのか、彼女はずっとそんな表情だった。

『それはお互い様でしょ』

僕も、彼女にはそう見えていたのだろう。

一体何が自分にそんな気持ちを植え付けたのか、僕は、何年も訪れることのなかった喫茶店へ足を運ぶ気になった。何年も前に、頻繁に通っていた喫茶店。

「お待たせしました」

店員がコーヒーとつまみをテーブルに並べる。

「ごゆっくりどうぞ」

当時はよく顔を出していたからか、この店員は僕のことを覚えていた。別に友達になったわけでもないしお互いに名前を把握していたわけでもないから、きっと僕のことを覚えていた、という、その程度のことなのだけれど。僕が一人でこの喫茶店を訪れても、一人ですか、なんて聞きはしなかったし、待ち合わせだと伝えなくても二人用の座席へ案内してくれた。それだけ頻繁に通っていたから、ただそれだけだ。

『あまり元気ないように見えるよ』
『君もだろ』
『どうして? そう見える?』
『見えなきゃそんなこと言わない』

暗号のように繰り返した会話が頭をよぎる。僕と向かいの席に座った彼女は、微妙な距離から牽制のようにお互いを探り合った。

『最近顔見ないと思ったから』

『一人でコーヒー飲んでもつまらないんだよ』

『何か話したいことがあるんじゃないの?』

どちらかがどちらかを誘う文句はいつも曖昧で、何の必然性も必要性もないように思えた。けれど僕は間違いなくそれに依存していたし、救われていた。だから今の僕が空っぽなんだ、なんて、誰にも言えることではないけれど。

「散漫だ」

つぶやいた後にはっとなって、つい誰にともなく苦笑いする。気付かないうちに独り言をつぶやくようになったら重症だ、と、何かで読んだようなことを思い出す。

散漫だ。

『何考えてるの?』
『何も考えてないよ』
『嘘』

散漫に、会話が掘り起こされる。望んでもいないのに、後から後から。いや、こんな思い出の場所へ足を運んだ時点で、暗に望んでいたということになるのだろうか。どちらにしろ逃げる術はなさそうだし、そんな気もなかったけれど。

『どうしたいのかわかんないよ』
『それこそお互い様だ』

力なく笑う彼女の顔。

『良かったね』
『……さあ、どうだろう』

力なく苦笑いする、当時の僕。

コーヒーカップに口をつけ、三分の一を飲む。今の僕も、当時の僕と同じ、情けない苦笑いをしているのだろう。何も成長していない。何も、変化していない。僕の数年間はここから一歩も進むことなく、ただ空っぽに過ぎたのだろうか。

『おめでとう』
『…………』

際限なく浮かぶ言葉。思い出なんて綺麗な言葉で表せたものかどうか。彼女とのやり取りはいつも表面的だったような気がするけれど、どれも僕の心を締め付けたことは間違いなかった。僕らは、傷付け合いながら依存してもいた。それは愛だとかではなくて、もっと浅ましい何かによるものだったのかも知れないけれど。

ふとカップに目をやると、もう中身はほとんどなかった。当時はこれ一杯で随分長い時間居座っていたことを思うと、よほど会話に集中していたのだろう。

「すいません、もう一杯ください」

トレイに乗せて新しいコーヒーカップが運ばれてくる。なんとなく目を合わせるのが嫌で、僕はずっと店員のエプロンを見つめていた。

「今日は」

コーヒーカップをテーブルに置き、空の方のカップをトレイに乗せたところで、店員が僕に話しかけた。

「お連れ様はいらっしゃらないんですか?」

予想外の質問に面食らう僕を見て、店員は後悔したのか、僕が答える前に立ち去ろうと考えたようだった。うっかり口を滑らせたことをごまかすように微笑み、振り返ろうとする店員へ、僕はできるだけ落ち着いた振りで、努めて冷静に答えた。

「来ないんじゃないかな。彼女、僕がここにいるって知らないから」

答えても答えなくても店員の反応は同じだったかも知れない。曖昧な笑顔を返した後に振り向いて、不自然でない範囲でなるべく速く歩き去る。いまやそのどれもが不自然でしかなかったけれど。

『またね』

突然頭に浮かんだ彼女の言葉は、最後の挨拶だった。数年前に耳にした、彼女の最後の言葉だった。それからずっと彼女とは会っていないし、どこでどうしているかも知らない。彼女と僕を繋ぐものはほとんど無くなってしまった。

「いらっしゃいませ」

店員の声が店内に響く。それに対して条件反射のように立ち上がると、運ばれてきたコーヒーには手をつけないまま、僕はレジへと向かった。途中すれ違った女性、今店に入ってきた客は、彼女とは似ても似つかない派手な女性だった。

『奇跡なんてそう簡単には起きないよ』

彼女の言葉か、僕の言葉か。頭に響く。

「知ってるよ」

誰にも聞こえないようにつぶやく。

「七百二十円になります」

手早く会計を済ませる間も、僕は店員と目を合わせないようにエプロンを見つめ続けていた。僕のことを覚えているとわかったならなおさら、そうした方が僕のためであるような気がしたし、これ以上店員が口を滑らせる手助けをすることもないだろう、とも思った。

「ありがとうございました」

ただ、最後に、木造の扉を引いて開けたときに、口にしていた気がする。

「また来ます」

彼女の最後の言葉と同じで、その口約束に信頼性なんてないような気もしたけれど、とにかくそう口にすれば、少しだけでも救われる気になるんじゃないだろうか、そんな気がした。

「また」

またいつか、思い出とコーヒーを。

Fin.

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