monologue : Other Stories.

Other Stories

傷からあふれたもの

間に合わせのような、小さな木作りの小屋の扉を開け、少女が店の中に入ってくる。

「木苺のジャムをひとつ、あとニカワを一缶」

差し出す小さな手のひらに乗せられた三枚の硬貨に目をやりながら、戒めるような低い声で店主が言う。

「ニカワなんて何に使うんだ、ニコ? 椅子の足でも折れたか?」
「地下室の壁にひびが入ってるみたいなんだ。虫が入ってくると嫌だから」
「ここいらにもう虫はいないよ」

ああそうだったね、と、ニコと呼ばれた少女が言う。それでも、家が壊れたままなのはあまりいい気分じゃないから、とも。

「もういっそ、どこかに移り住んだらどうだい」
「うん、ありがとうおじさん。でも、私の家だから」
「まだ記憶は戻らないのか?」
「皆がよくしてくれるから、困ってはないよ」

そう言う少女の笑顔にどこか影を見ながら、店主はジャムの瓶と、ニカワの詰まった缶を棚から引きずり下ろした。

「もう手に入らなくなるみたいでな。木苺のジャムを売ってやれるのはこれが最後だ」
「わかった、大事に食べるよ」
「ニカワは重いから、家の近くまで持って行こう」
「大丈夫、一人で持てるから」

しかし、と店主が言いかけたとき、扉が開いて、初老の女性が店に入ってきた。頭からすっぽりと布をかぶり、顔以外に露出しているのは手首のほんの少しの部分だけ、という格好の。

「あら、ニコ。久しぶり」
「久しぶり、おばさん」
「その後どう? 何か思い出した?」
「何もなし、だとさ」

口をはさむ店主に、あんたに聞いてるんじゃないわよ、と悪態をつき、すぐに穏やかな表情になって少女を見つめる。

「あんたも若いのに、世の中こんなで同情するよ」
「私は大丈夫よ、おばさん。何も思い出せないのは辛いけど、皆が言うような辛い出来事も思い出せないんだから、ある意味ラッキーだわ」
「戦争のことは、あんたたち子供には責任はないのにねえ。あれは、一部の大人が始めたことなんだから……何もできなかった自分にも同情するよ、ニコ」
「過ぎたことなんだから、きっと大丈夫よ、おばさん」

もう少ししたらきっと住みやすい世の中になるわ、だから頑張らなくちゃ。少女はそれだけ言うと、手にしていた硬貨を何も並べられていない陳列棚へ置き、ジャムの瓶とニカワの缶を両手に持った。

「何かあったらすぐに言ってこいよ」

店主の声に笑顔で答え、少女は店を出る。扉が音を立てて閉まり、女性が小さく小さく言う。

「不憫だねえ、戦災孤児、なんて」
「そんなことを言うもんじゃない」

店主に戒められ、女性はうつむき加減にため息をつく。

「何がそんなこと、だい。子供に辛い思いをさせるのは大人の責任だろ」
「それは、間違いなくそうだが」
「あたしにゃ売れないジャムをあの子に売るのも、何かの罪滅ぼしのつもり?」
「老い先短い体で贅沢は毒、ってことだ」

減らない口だ、とつぶやくように言う。店主はそれを気にとめる様子もなく、事務的にただご注文は、とだけ言った。

「ジャムも最後か、残念だな」

缶を抱えた手に瓶を持ち、それを見つめながら独り言をつぶやく。家までの道のりはそう遠いものではないが、街灯に電気など通っていないから、夕方を少し過ぎると薄暗い。人とすれ違うことはまずないが、ときどき誰かの視線を感じて振り返ることもある。何かの動物じゃないか、と振り向きながら、もうこの地域に動物はほとんどいない、という大人たちの言葉を思い出すのだけれど。

「戦争、か」

彼女には、数ヶ月前から昔の記憶がない。どうして記憶がないのか、それすらも思い出せないままでいる。

「どうして思い出せないんだろ」

雑貨屋の店主はこう教えてくれる。

五年前から半年前まで、大きな大きな戦争があった。国同士じゃなくて、世界の片方ともう片方が争うような大きな戦争だ。どちらも勝つことはなく終わり、人類が死滅するような事態も避けられたけれど、いろんな動物や植物を犠牲にしてしまった。ここいらは戦闘区域だったから、きっと生き残ってる生き物は人間だけだろう。それも、二百いるかどうか、それくらいの。

「なんで、戦争したんだろう」

半分焼けてしまった家に住んでいるのは、きっとそこが自分の家だからだろう。記憶をなくす前に呼ばれていた名前を思い出せたのは、呼び名に困らないように誰かが配慮してくれたのかも知れない。皆が手を合わせて祈るような、神様とか。さしあたって困ることは、ない。

「思い出ってどんな感じなのかな」

マリーおばさんは、戦争に行ったという息子の話をすると泣いてしまう。ヨハンは、恋人が殺されたと言って泣く。カルロもアニーも、皆泣く。思い出の話をすると、皆が泣いてしまう。

「だったら忘れられたら、楽なのにね」

だから自分は、ある意味ラッキーだとときどき考える。半分焼けてしまった我が家の、玄関らしきものがあった場所へと立つ。

「ただいま、私のおうち」

屋根のある場所へ入り、ニカワの缶を床へ置いて、ジャムの瓶を引き出しの中へしまう。ここはきっと台所だったんだろうと、誰かが教えてくれたことがある。

「どうして、思い出せないんだろ」

右手で頭の後ろの方をなでる。髪をかきわけながら探ると、何か線のようなものが指先に触れるのがわかる。きっと何かの傷跡だろう、と思うけれど、誰にも聞いたことはない。もしこれが原因で記憶がなくなったんだとしたら、誰もわからない記憶喪失の原因を、その原因の傷跡の原因を、誰かが知っているはずはないからだ。

「ひび、ふさがなくちゃ」

思い出したようにつぶやき、ニカワの缶を抱えながら地下室へと下りる。壁にかけられたランプのねじをひねると、ぼんやりと明かりが部屋全体を照らす。地下室と地上をつなぐ階段の正面の壁に、縦に一筋、亀裂が入っていた。

「木の壁だから、ニカワで大丈夫だと思ったけど」

思い出せない記憶のどこかから、誰かがそう語りかけているような気がすることがある。この壁の亀裂を見つけたときに、ニカワを買いに行こう、と思ったときのように。

「でも、このひび、ふさがなかったら?」

その答えが語りかけられることはない。ひびはふさぐものだ、としか。

「ふさいだら、どうなるの? ふさがなかったら?」

頭の傷跡をなでる。ふさがなかったら? 傷から何かがあふれだして、とりかえしがつかないように、だめになってしまう?

「私の記憶があふれだしてしまったみたいに?」

誰も答えない。

「もう、どうしようもなくなってしまう?」

亀裂の入った壁に歩み寄り、そっと指でなでてみる。

「壁も、戦争で? 私も、この壁のことを思い出したら泣くの?」

誰も答えない。

結局壁の亀裂はふさがずに、ニカワの缶を置いて地下室を後にした。せっかく買ったものを捨てるのはもったいないから、もし家が崩れてしまいそうなくらいにひびが入ったらふさいでしまおう。けれど、もうそのときには手遅れなのかな。心の中で、誰かと誰かが話し合っているように思える。

「ひび、ふさがないことにしたよ。ごめんね」

柱をなでながら、きっと自分が今まで住んでいた、これからもしばらくは住み続けるであろう家に呼びかける。

「ああ、でも」

次に雑貨屋に行ったときにはなんて言おう? 壁のひびはふさげたか、あれだけのニカワで足りたか、ときっと店主は言うだろう。ふさぎませんでした、とそれだけ?

「ふさいだって、ひびが入る前と同じにはできないよね」

頭の傷跡をなでる。

台所だった場所から屋根の焼けてしまった部屋へ出て、空を見上げる。あたりはすっかり暗くなっていて、昼も夜も相変わらず動くものは目に入らなかったけれど、それでも空に星だけは見ることができた。

「私の思い出、どこへあふれていったんだろう」

空を見上げてつぶやく。夜空には星が輝いている。なぜか、それには見覚えがあるような、ふとそんな気になった。

Fin.

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