monologue : Other Stories.

Other Stories

前者の跡

「これ、間違いだ」

アパートの郵便受けに入っていた電力会社からの明細書の、宛先に書かれている名前が僕の名前じゃない。

「森野久留美……メルヘンな名前だな」

携帯電話を取り出し、管理会社に確認の電話を入れる。

『はいファミリア伊東です』
「あの、204 に先週から入ってる猪野ですけど」
『どうかされましたか?』
「郵便受けに、間違って明細書入ってるんです。もしかしたら前の人じゃないかと思ったんだけど、これ、どうしたらいいかな」
『退去時、まれに郵便局で処理されないことがあるんです。こちらで処理いたしますので、管理人室のドアにでもはさんでおいてください』

割といい加減なものだな、と思いながら電話を切る。良くないことだとはわかっていても、つい明細書を流し読みしてしまう。

「全然使ってないじゃん」

基本料金に毛が生えた程度の使用料金だった。留守にしがちだったなんてケースかな、などと思いながら、管理人室のドアに明細書をはさみ、僕は自室へと向かった。

そしてその明細書のことは、しばらくすっかり忘れてしまっていた。

「あれ」

三日くらい後だったか、また郵便受けに間違いの郵便物が入っていた。宛先は同じく "森野久留美" で、今度はガス会社からの明細書だった。二度目になると「またか」という感じしかしなかったので、宛先が間違っていることを確認すると、それをすぐ管理人室のドアにはさんだ。管理会社がいい加減なだけだろうかと思ったけれど、特に何も言わず、そのことは頭の隅に追いやってしまった。

しかしまたその数日後、"森野久留美" の名前を気にかけることになった。

『もしもし、久留美?』

受話器の向こうから、数日間で何度か目にした名前に呼びかける声。アパートの各部屋に備え付けてある電話に、彼女の友人を名乗る女性から電話がかかってきた。

「あの、僕は猪野というものですが」
『あれ……森野の部屋じゃないですか?』
「二週間くらい前から僕が使ってます」
『ごめんなさい、間違えました』

丁寧に謝った後に電話は切れた。そして、二分後にもう一度鳴った。

「もしもし」
『あ……さっきの方ですよね』
「そうでしょうね」
『おかしいな……何度も本当にすみません』
「あの」
『もうかけませんから、お騒がせしました』
「いや、そうじゃなくて」
『はい?』
「森野さん、どうかされたんですか?」

電力会社やガス会社だけでなく、友人にも引っ越しの旨を伝えていない。不手際というより、ここまでくると少し異常な気がした。管理会社には手続きを済ませているようだから、少なくとも行方不明というわけではないだろうけれど。

『どうかされた、って?』
「その、最近顔を見てない、とか」
『そんなことはないですけど……』
「そうですか。こっちこそ要らないこと聞いたようで、すみません」

いえいいんです、とだけ言って電話が切れる。不思議、というか、少し不気味な感覚だ。親しげな友人に引っ越しのことを告げていない、なんて、どういう状況なんだろう?

「夜逃げ、か、誘拐、拉致、なんて」

物騒なことを口にしてみてもどうなるわけではない。彼女のことは名前しか知らないのだし、今どこにいるかなんて知るはずもない。彼女の友人に何かしてやれるわけでもない。忘れよう、というのが、僕が数十分後にたどり着いた結論だった。

それも、また数日間しかもたなかったのだけれど。

「小包です、サインお願いします」

インターホンを押したのは、宅急便の配達員のようだった。今行きます、と少し大きな声を出しながら、机の上の眼鏡をかけて僕は玄関に向かった。

「こちらに、サインを」

受け取ったペンをすべらせようとして気付く。

「これ、うちじゃないです」

またか、いったいどういうことなんだ、と配達員を軽くにらみつける。宛先はまた "森野久留美" だった。

「あれ、おかしいな、ここ 204 ですよね」
「204 ですけど、半月前から僕が使ってます」
「おかしいな……」

おかしいのは管理者か、それとも前の住人か。さすがに四度目となるとうんざりしていたので、僕の態度もそれなりに荒々しくなっていた。

「間違ってたのかな……」
「とにかく、うちは森野さんじゃないから」
「申し訳ありませんでした、発送者に問い合わせて確認を……おかしいな」

荷物を抱えて僕から遠ざかりながら、配達員はしきりに首をかしげていた。なんとなくその仕草が気になって、僕の方から問いかけてみる。

「その郵便物、何かおかしなところでも?」
「発送者が森野雅恵さま、となってるんですよ。ご家族が間違えるなんて、ちょっとおかしいですよね」
「……家族?」
「だと思うんですけど。どこで手違いがあったんだろうなあ」
「発送日は?」

そんなことを教えたらプライバシーの侵害になるだろうから、この配達員は決して優秀な社員ではないのだろう。僕にとってはそれなりにありがたいということになるのだけれど。

「三日前です」

警察か管理会社か、どちらかに駆け込んだ方がいいだろう、という選択肢が頭に浮かんだわけだから。

結局、まず管理会社を訪ねることにした。

「失踪とかじゃないとは思うんですけど」

前置きもそこそこに、今まであったことを全て担当者に説明する。明細書の誤配達、前住人への電話、さらに前住人の家族から、引っ越した後に発送した郵便物。こうも立て続けに間違われると、迷惑どころではなくて気持ちが悪い。前住人に連絡をつけることはできないか。

というのが、僕の大体の説明。

「それが、ですね」

担当者は少し難しそうな顔をして、ゆっくり、ため息のような吐息と一緒にしゃべりだした。

「以前の利用者さまは、ご自宅に戻られるからもう新居を探す必要はない、とおっしゃっておりましたもので」
「は?」
「ですからその、前利用者さまの新居をうちでお世話させていただいていれば、連絡先を知ることも難しいことではないのですけれど」
「じゃ、家族か誰かの連絡先でも教えてもらえれば、僕が直接伝えますけど」
「それが、部外者の方にそれをお教えするわけにはいかない規則でして」

この担当者があの配達員のように抜けてれば、ここでほいほいと教えてくれたのだろうな、などとふと思った。

「規則って言ったって、僕は実際こうして手間になるようなことが起きてるわけだから」
「申し訳ありませんが、それでもお教えするわけには」
「……わかったよ」

渋々席を立ち上がる僕に、担当者が深く頭を下げる。

「大してお力になれず」
「いいよ、また何かあったら連絡します。彼女に連絡することがあったら、伝えておいてください。現利用者のところに電話がかかってきてるとか」
「彼女?」
「あ、前の利用者。森野さんのこと」
「森野さま、でございますか?」

担当者は奥の部屋へ入り、分厚いファイルをばらばらとめくった。

「前利用者は、男性の方でございますが」
「……は?」

結局規則により僕はそれ以上を知ることはできなかった。前利用者が本当に男性なのだとしたら、あの電話や郵便物はいったい誰に宛てたものなのだろうか。

「……あれ?」

考えてみれば奇妙な話だ。自宅へ戻ったというんだったら、前に住んでいたアパートへ贈り物をするわけがない。

「おかしな話だな」

ますますわけがわからなくなってきた。前利用者は森野? それとも別の男性? あの郵便物はどこから? 電話は誰に宛てて?

考えれば考えるほど混乱する。それと似たような足取りでアパートへ戻り、自分の住む部屋へと足を踏み入れる。とその瞬間、右方向から何かに打ちのめされるような衝撃に襲われた。

「……っ!」

壁にめいっぱい打ち付けられて、バランスを失って玄関先に崩れるように倒れ込む。衝撃で朦朧とする頭を少し持ち上げると、玄関右手のクローゼットが開いていて、そのすぐそばに真っ黒な服を着た男が立っていた。

「……あれ、お前、お前は? 久留美、久留美じゃない、なんてこった」

男は何かつぶやくと突然震えだし、手から何かを落とした。それは僕の目の前に金属音を立てて転がり、おそらく僕の血が付いた刃物であると認識させるのに、二秒とかからなかった。

「久留美だと、久留美だと思って」

言い訳のようにぼそぼそとつぶやくと、男は開け放しになっていたドアから飛び出していった。

「思って……間違い、だと?」

声になっていないような声でつぶやく僕を、激痛が襲った。右わき腹のあたりから出血しているようだった。それも、どうやら尋常じゃない量らしい。

「玄関、名札……見れば、わかる、だろう」

体が、動かない。絶望的な状況に死を予感しながら、そういえば、かけ直したはずの玄関の名札、確かに "猪野" だっただろうか? と、そんなことが頭をめぐった。

『今日午後未明、世田谷区にあるアパートの一室の玄関で、死後数時間が経過した男性の刺殺体が発見されました。警察はこの部屋の持ち主が事件に関わっているとみて、その女性を重要参考人として全国に指名手配を……』

Fin.

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