monologue : Other Stories.

Other Stories

水の音

水の音がする。湿った石畳の廊下に、天井から滴がしたたる音。ぶつかり、飛び散り、やがて馴染んで消えていく水の染み。なんと皮肉なものだろう。

質素だが頑強な石造りの建物は、今日のように陽の射す日でも乾き切ることはない。必ずどこかに陰を作り出し、湿った空気をこもらせ、中にいる者の肌に何かをまとわりつかせる。その「何か」がただの水分であれば、どんなに気が楽であることか。

鉄格子の扉が、それの歴史と同じくらいに長い軋みを響かせる。石畳の上を上品な足音が歩く。湿気のために少しだけ柔らかい音が。

「間違いないのだろうね?」
「おそらく、仰せの通りの人物だと思います」

看守と、足音の主の会話が聞こえてくる。その他に聞こえるものと言えば、各々の独房に収容されている連中の、気ちがいじみた叫び声ばかりだった。まるで会話でも交わしているかのように、あちらこちらから応酬するように響く声。ある者は怒り、ある者は怯え、叫んでいるのかも知れない。

僕はそれらには加わらず、鉄格子のはまった明り取りの窓から射し込む光が描き出す、少しいびつな四辺形の中にうずくまっていた。

足音が近づき、僕の部屋の前で立ち止まる。鉄製の扉が少し高い音で軋み、部屋の内側に開く。

「やれやれ、やっと見つけたよ」

僕は体を起こして、声の主が誰なのかを確認しようとした。窓からの光を背に受けていて、声の主は真っ黒なシルエットにしか見えなかった。

「案外、古風で陰気な趣味なんだな」
「……君か、ユーゴー」

彼は光の射し込む方へ歩み、窓のすぐ下に置かれた肘掛け椅子に腰掛けた。逆光のせいで彼の表情は一切見て取れず、僕は眉をしかめながら彼の方へ顔を向けた。

「随分探したよ、ムカイ。こんなところで何をしてるんだい?」

椅子の肘掛けに両肘を乗せ、顔の前で右手の中指と親指を擦り合わせる仕草をしながら、真っ黒な男は僕に尋ねた。5m 四方の部屋の半分は光が射さず、湿った空気に覆われてひんやりと冷たい。僕は光の四辺形から逃げるように抜け出し、部屋の隅に小さくうずくまった。

「聞いたところによると、パンを盗んでぶち込まれたそうだね。両手いっぱいに三つもかごを抱えて、逃げ切れると思ったわけでもないだろう?」
「さあ、どうだか。あるいはね」
「こんな収容所に自分から入り込んでどうするつもりだ? 責任でも感じているのか? 君なりの償いのつもりかい?」

彼の率直な言葉に、僕は胸の奥から何かが突き上げてきて、今にも口から全て吐き出してしまいそうな気分になった。

「責任?」
「三ヶ月前の事故を悔いているのだろうが、あれは君の失敗じゃないさ」
「僕の失敗じゃないだと? じゃあ、誰の失敗だっていうんだ?」

真っ黒なシルエットは肩を揺らし、小さく呆れるようにため息をついた。

「ムカイ、君は素晴らしい研究者だ」

両手を胸の前で組み、体を少し後ろに倒す。肘掛け椅子が軋む。僕は吐き気をなんとか堪え切って、逆光の中にある彼の表情を読み取ろうと努力した。

「なあ、君がこんなところでくさっている間に、戦況はいったいどうなっていると思う?」
「僕の研究は戦争のためのものじゃない。君たちがそれをそう使っただけだ。戦争のことなんて、僕の知ったことじゃない」
「ムカイ」

もう一度ため息をつき、今度は少しうつむく。

「僕の力を使えば、君をこの薄汚い独房から出してやれる。研究所で働いていたときと同じように、また優雅な生活を送らせてやることもできる」
「知っているさ。君が最初に僕に与えたんだから」
「必要なんだよ、君の頭脳が。君の研究があれば、我が国は十年来の戦争に勝てるんだ。今さら小さな事故のひとつやふたつ、なんだというんだ」

顔を上げ、目も口も見えない真っ黒な顔が僕を見つめる。

「……ひとつやふたつ、か」
「研究中に事故が起きるなんて、一切予測できないことでもなかったろう? とにかく君が無事で良かった、犠牲は凡庸な研究員ばかりで。……そう思ってみれば、どうだいこの有様は」

胸の前で組んでいた腕を広げ、今度は調子を変えて僕に語りかける。僕は、旧約聖書の、エバが蛇に説き伏せられる場面を思い出していた。

「地位も名誉も投げ打って世捨て人になり、挙句行き着く先が旧世紀の独房だなんて」
「……なあ、ユーゴー」
「なんだい」
「君は自分の手が、知らない内に人を殺している夢を見たことはあるかい」

彼は何も言わなかった。表情を読み取ることはできないが、どうやら困惑しているか、そうでなければ僕をばかにしているらしかった。

「いつも通りの仕事をしていたらいつの間にか、自分の両手が血まみれだ……なんて夢を見たことはあるかい」
「ムカイ、君の言いたいことはわかるよ」
「わかるものか。君に、わかるものか」

吐き捨てるように言い、僕は彼から目をそらした。

「なあムカイ、君がどんな思いで研究をしてきたか、それを僕はよくわかってるつもりだ。不満があるなら言ってくれ。何が足りない? 設備か? 資金? 優秀な人手?」
「…………」
「三ヶ月前の事故で亡くなった研究員だって、君のために喜んで命を投げ出したことだろう。僕だって彼らに負けないほど、君への助力は惜しまないつもりだよ」
「なあ、ユーゴー」

彼は何も言わない。僕は一度だけ、大きく深呼吸をした。

「僕の目の前で、同じ研究員が死んだ。僕の責任だ」
「違うムカイ、あれは君の責任じゃ」
「きっと戦場で、僕の研究のおかげで何十、いや何百人と同じ目に合ってる。僕の責任だ」
「…………」
「気づいたんだよ、ユーゴー。僕は、あの研究を続けるべきじゃない」

真っ黒なシルエットはため息をついてから、ゆっくりと立ち上がった。

「そうか、君の気持ちはよくわかったよ」
「だといいがね」

そう、そうだといい、と彼はつぶやき、出口へ足を向けた。二・三歩進んで思い出したように立ち止まると、今度は振り向くことなく、僕の顔を見ずに言った。

「君がやらないのなら、きっと誰かが代わりに研究を進める。そうでなければ、今度は僕らが死ななければならないのだから」
「……戦争をやめるわけには?」
「そううまくもいかないさ」

彼は振り向くことなく部屋を出て行き、鉄製の扉が軋みながら部屋の外と中を分けた。足音は規則正しく響き、少しずつ遠ざかってゆく。やがて、古い鉄格子の扉が閉められる音が聞こえた。

僕はまた光の四辺形の中に身を投げ出し、石畳の床に耳を澄ませた。囚人たちの叫び声が響く。建物の外の、小鳥の鳴き声。看守のくしゃみ。

自分の罪を命で償おうというのなら、それはとても簡単なことだ。あと三日何も飲まなければ、きっと僕は簡単に死んでしまえるだろう。ふと、そんなことが頭をよぎった。

水の音がする。湿った石畳の廊下に、天井から滴がしたたる音。ぶつかり、飛び散り、やがて馴染んで消えていく水の染み。なんと皮肉なものだろう。滴は、まるで人の生き方そのものであるように感じられた。

水の音がする。

Fin.

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