中原中也
筆とりて手習させし我母は今は我より拙しと云ふ
冬去れよそしたら雲雀がなくだらう櫻もさくだらう / 冬去れよ梅が祈つてゐるからにおまへがゐては梅がこまるぞ / 冬去れば梅のつぼみもほころびてうぐひすなきておもしろきかな
菓子くれと母のたもとにせがみつくその子供心にもなりてみたけれ / ぬす人がはいつたならばきつてやるとおもちやのけんを持ちて寢につく
梅の木にふりかゝりたるその雪をはらひてやれば喜びのみゆ / 人にてもチツチツいへば雲雀かと思へる春の初め頃かな
藝術を遊びごとだと思つてるその心こそあはれなりけれ
ユラユラと曇れる空を指してゆく淡き煙よどこまでゆくか / 白き空へ黑き煙のぼりゆけば秋のその日もなほ淋し
的もなく内を出でけり二町ほど行きたる時に後を眺めぬ / たゞヂツと聞いてありしがたまらざり姿勢正して我いひはじむ / 腹たちて紙三枚をさきてみぬ四枚目からが惜しく思はる / 見ゆるもの聞ゆるものが淋しかり歌にも詩にもなりはせざりき
天下の人これきけといふざまをして山に登ればハモニカ吹けり
橇などに身の凍るまで走りてもみたかり雪の原さへみれば
遠ざかる港の町の灯は悲し夕の海を我が船はゆく
麥の香の嬉しくなりて麥笛を作りて吹けり一人ゆく路 / 人氣なき古き貸屋に春の陽の細くさし入り晝靜かにも / 友ところぶれんげ田に風そよ吹きて汽車の汽笛の遠く鳴るなる / 朝までは雨の降りしに家々のいらか乾きて風強き街 / 心にもあらざることを人にいひ僞りて笑ふ友を哀れむ日
晝たちし砂塵もじつと落付きて淡ら悲しき春の夕よ
地を嗅ぎてもの漁る犬のその如く夕の公園に出でては來しが / 夕暮の公園の池の水靜か誰一人ゐず石落としみる / 大河に投げんとしたるその石を二度みられずとよくみいる心 / 靜かなる河のむかふに男一人一人の我と共に笑みたり / 偉大なる自然の前の小さき人間吹くハモニカの音もなさけなし / 限もなき空の眞下の木の下に伏して胸苦し何が胸苦しきか
海原はきはまりもなし明日はたつこの旅の地の夕燒の空 / 砂原に大の字にねて海の上のかき曇る雲に寂漠をうつたふ / 大いなる自然の前に腕組みてはむかひてみぬ何の爲なるか
欠伸して伸ばせし腕の瘠せてをり寢覺悲しき初夏の朝 / 陽光の消しばかりの夕空に煙は登る川邊にたてば
蚊を燒けどいきもの燒きしくさみせず惡しきくさみのせざれば淋し
可愛ければ擲るといひて我を打ちし彼の赤顏の敎師忘れず / 山近き家に過ごしし一日の默せし故の心豊かさ
夏の日は偉人のごとくはでやかに今年もきしか空に大地に / 俄かにも雲りし夏の大空の下に木の葉は靜かにゆらぐ
去りてゆく別府の驛の夜はさびし雨降り出でて汽笛なりけり
人みなを殺してみたき我が心その心我に神を示せり / 世の中の多くの馬鹿のそしりごと忘れ得ぬ我祈るを知れり / 我が心我のみ知る!といひしまゝ秋の野路に一人我泣く / そんなことが己の問題であるものかといひこしことの苦となる此頃
やはらかき陽のさして來る靑空を想ひて悲しすさぶ我が心
やせ馬の聲の悲しく秋の氣にひびきてかへす秋闌ける頃 / うねりうねるこの細路のかなたなる社の鳥居みえてさびしき / みのりたる稻穗の波に雲のかげ黑くうつりて我が心うなだる / この路のはてにゆくほど秋たけてゐるごとく思ふ野の細き路 / 書齋よりやはらかき陽さす秋の野をたゞぼんやりとながめてをれり
アルプスの頂の繪をみるごとき寂しき心我に絶えざり
たふれたる稻穗に秋の陽は光りおぼろあつさを眉毛に覺ゆ
玄關に夕刊投げし音のしぬ街道靜かに夕せまる頃 / 吹雪する夕暮頃の路ゆけば農家の燈見えずさびしも / 一つ一つ軒の灯火ともりつゝ雪ピツタリと止みにけるかも / 一筋の路に添ひたつ電柱の多くはみえず雪降れば寂し / ひねもすを鳴き疲かれたる鳥一羽夕の空をひたに飛びゆく
冬空の夕べ飛びゆく鳥の聲野に立ちきけばさびしさのわく / 湯を出でて心たらへり何もかも落ち付きはらふ心なるかも / さびれたる冬野の中をうねりうねる畦路遠く雪おける見ゆ
舟人の帆を捲く音の夕空にひゞき消えゆき吾内に入る / 露落つる明るきひるに雪とけの庭に下り來て陽をあびにけり
吹雪夜の身をきる風を吹けとごと汽車は鳴りけり旅心わく / 出してみる幼稚園頃の手工など雪溶の日は寂しきものを / 犀川の冬の流れを淸二郎も泣いてきゝしか僕の如くに / 來てみれば昔の我を今にする子等もありけり夕日の運動場(母校に來て) / みつめたる石を拾ひて投げてみる此の我が心虚を覺ゆ / ふるき友にあひたくなりて何がなし近くの山に走りし心! / 靜かなる春近き日の午後の池に杭の影して冷たさうなり / 向ふ山に人のぼるみゆヂラヂラと春近き日の光まばゆくて / 珍しき冬の晴天に凍溶けし泥に鷄ながながとなく / 紅くみゆるともしのつきて雪の降り靜かに眠る冬の夕暮 / 出でゆきし友は歸らず冬の夜更灰ほりみれば火の一つあり / 一段と高きとこより凡人の愛みて嗤ふ我が惡魔心 / 猫をいだきやゝにひさしく撫でやりぬすべての自信萎びゆきし日 / 火廻りの拍子木の音に此の夜を目ざめて遠く犬吠ゆを聞く / 暗の中に銀色の目せる幻の少女あるごとし冬の夜目開けば / 夜明がた霜ふみくだき道ゆけば草靴片足打ち捨てありぬ / 小さき雲動けるが上の靑空の底深くひびけ川瀨の音よ
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